郷土の偉人 塙保己一

塙保己一


塙保己一の生涯

塙保己一は延享3年(1746)5月5日に武蔵国児玉郡保木野村に生まれた。幼名を寅之助といった。寅之助は幼少の頃は病弱で、7歳の時に病のためついに失明した。そのため両親は親類よりの勧めで失明に至った不幸を転じようと、生まれ年を二つ減らした辰歳とし、名前を辰之助に代えたという。

辰之助が12歳の夏に母を失った。母を失った悲しみの中で保己一は江戸に出る決心をしたという。辰之助は江戸での生活に希望を見出したのである。

辰之助は宝暦10年(1760)に15歳になって江戸へ修行に出た。修行とは目の不自由な人たちが生業とする按摩や針・灸、それに音曲などのことである。

辰之助は母が作ってくれた巾着に23文を入れ、着替え等を入れたそうめん箱を背負い江戸へ出て、四谷西念寺横町にある雨富検校須賀一に弟子入りした。辰之助は千弥と名を改め修行を始めた。
保己一は不器用であったらしくこの技術習得のための修行がうまくいかず大いに悩んだ。保己一は自殺を計ろうとするまで悩んだのだった。

保己一は記憶力に優れていたので、先生は学問の道に進むことを特別に許してくれた。通常、彼らが本業以外の道に進むことはあり得なかったという。
翌年(宝暦11年)に歌学者百花庵宗固(萩原宗固)の門に入り、その後、明和6年には宗固師匠の推薦で当時名声の高かった国学者賀茂真淵に入門した。その後、保己一は学問は勿論、本業の修行も欠かさず努力をし、その結果、宝暦13年(1763)には衆分に昇格し、安永4年(1755)正月には勾当の位に昇進した。勾当に昇進すると保己一は姓を塙と改め、名も保己一に改めた。塙姓は師匠雨富検校の本姓である。

安永8年(1779)になると保己一は大叢書(『群書類従』)刊行の祈願を天満宮にて行った。そして保己一は天明3年(1783)3月7日に念願の検校の位に進んだ。

寛政元年(1789)には、保己一は水戸藩より「大日本史」の校正を依頼された。これは水戸の学者立原翠軒(彰考館総裁)の推薦によるものであった。これにより水戸藩とのつながりができた。
保己一は寛政3年(1791)に寺社奉行より座中取締役(一座取締役)に任命された。これは寛政の改革の一環で、当道座(盲人社会)の改革に幕府が乗り出し、保己一がその取締役に抜擢された。

寛政5年(1793)2月には保己一は和学講談所設立の願書を寺社奉行所に提出し、すぐに許可がおり、すぐに屋敷の普請にかかり完成後移り住んだ。保己一はここを拠点に「群書類従」の編さんに励むのである。設立された和学講談所には有能な人材が集まり保己一を支えた。講談所の機能には学校的機能、研究所的機能、幕府の要求に対処する行政機関的機能、独立採算性の公益事業を行う公社的機能があった。寛政7年(1795)になると和学講談所に幕府より手当が給され、寺社奉行管轄から林大学頭の支配に置かれることとなった。これにより講談所は幕府の機関に準ずる機関になった。

享和3年(1803)6月に保己一は一座の惣録職に就任する。関八州の目の不自由な人達を総管する役で、京都にいる総検校に諸事を取り次ぐ役であった。これにより保己一は惣録屋敷に移り住む。

文化2年(1805)、保己一は総録職を辞任して和学講談所に移り住む。12月には一座の十老に列し上京し、総検校等に挨拶を行い江戸に帰った。通常、十老職になると京都在住が慣例だったが、和学講談所勤務のため特例で江戸在住が認められた。

文政2年(1819)、この年、群書類従670冊の刊行が完了する。現在の数え方では本文665冊・目録1冊の666冊である。40数年にもわたった大事業が完成したのである。

文政4年(1821)正月、保己一は総検校相続のため上京し、2月に保己一は最高位総検校に任命された。しかし同年9月12日に江戸において死去した。76歳であった。戒名は「和学院殿心眼智光大居士」で、四谷内寺町の安楽寺に葬られた。
明治19年、安楽寺の墓地の土をわけて郷土保木野村に墓地を営む。なお塙保己一の墓地は明治31年5月28日に安楽寺が廃絶したため、四谷の愛染院に改葬された。