本庄市の歴史

埼玉県の北西部に所在する本庄市は、北方は利根川を介して群馬県と接し、赤城山や榛名山が望まれ、南西は上武山地を抱え秩父の山系が望む自然豊かな郷土です。

この土地に最初にきた人々は旧石器時代の人たちでした。その後の縄文、弥生、古墳の各時代をへて定住し人口も増加し、埋蔵文化財の数も、県下有数の513遺跡にのぼります。

奈良時代前後より本庄市域の大半は、武蔵国児玉郡に編入されました。つづく平安時代も終わりころになると、武蔵武士の児玉党が郡内各所に発生し、源平合戦など合戦に参戦してその名をあげました。このころの児玉郡には、「児玉庄」という庄園が経営されていたようで、その名は児玉党一族の名字にも使われました。
鎌倉時代には児玉党の一族は新に獲得した全国各地の所領へと移住していきました。また市域には中世文書の中に「本庄」・「児玉」・「塩谷」などの地名があらわれます。また本庄市児玉町や本庄市牧西には、今も鎌倉街道の呼び名が残されており、この地域が次第に、戦略的に重要な拠点となっていったことを物語っています。室町時代には五十子陣が記録に現れ、薊山(浅見山・大久保山)合戦や生野山合戦なども行われました。戦国時代には、児玉党の系譜を引く本庄実忠が、市役所付近に本庄城を築きます。また、本庄市児玉町八幡山には、関東管領山内上杉氏によって雉岡城が築城されました。戦国時代の終焉とともにこの二つの城も城主を替え、江戸時代初期頃には政情の安定と共に廃城となりました。

江戸時代になると本庄地域には新たに中山道が整備され、児玉地域では鎌倉街道をもとに、中山道脇往還川越道が整備されました。以後、両方の地域は城下町から宿場町へとかわります。なかでも、本庄宿は天保14年(1843)に、中山道最大の宿場町へと発展しました。街道の町として繁栄した本庄地域には、江戸と京の経済や文化もはいってきました。そして、多くの文人墨客や偉人も育ちました。また保木野村出身の塙保己一は、江戸に出て盲目の国学者として大いに活躍します。

明治の近代化とともに、それまでの中山道に加え日本鉄道本庄駅が開業し、周辺は、さらなる発展をとげます。江戸時代より盛んだった養蚕業に拍車をかけ、本庄宿(町)に生繭の市場が開設されたからです。この養蚕業に尽力をつくした木村九蔵は、競進社の養蚕伝習所を児玉町に開設しました。九蔵は競進社模範蚕室を建設しています。またこの時代、本庄市域内から多くの人物を輩出しています。渋沢栄一家と姻戚関係にある本庄町の東諸井家からは、秩父セメント株式会社の創始者諸井恒平が出ています。その子貫一は戦後に経済同友会や経団連を創始しました。また社会思想家の石川三四郎や移民問題やオーストラリアでの採貝事業で名を成した佐藤虎次郎などが出ています。
明治22年(1889)、町村制施行により児玉郡本庄町と児玉郡児玉町が誕生。周辺でも村制を施行しました。

戦後になると、本庄町とその周辺の村々は合併して本庄市となり、児玉町と周辺の村々も合併により新に児玉郡児玉町となりました。そして、平成18年1月10日に両市町は合併し、新本庄市が誕生したのです。